PICK UPピックアップ
日本のバーの歴史と歩む
ヨコハマ今昔物語。
<前編>
#Pick up
ジミー・ストックウェルさん(ウィンドジャマー)×江口明弘さん(Waku Ghin) by「Windjammer」
「ウィンドジャマー」とは19世紀後半から20世紀にかけて活躍した、貨物用帆船のこと。ガス灯を思わせる照明が、港町らしい趣きを今に伝える。
日本のバー文化発祥の地は、横浜の山下町界隈と言われている。
その山下町にある中華街には今も40数軒ものバーがひしめき合う。バーのメッカ、なのだ。
そんな中華街にあって、港町・横浜の興隆を見守り続けてきたバーマンがいる。
その人は、オープンして40年を迎えるバー「ウィンドジャマー」のオーナー、アメリカ人のジミー・ストックウェルさん。
父親がニューヨークでパブを営んでいたというジミーさんは店内の清掃やビールの樽運びなどを言いつけられ、
ハイスクール時代からバーという大人の世界を垣間みてきた。
その後、軍に入隊。1960年に厚木基地に配属される。
「当時のヨコハマは港に立ち寄る世界各国の船乗りと兵隊がばかりがいてね、日本じゃない異国のムードが漂っていたよ」
ジミーさんは当時の猥雑なヨコハマの雰囲気を懐かしむ。
そう、日本のバー黎明期を築いたのは外国人相手のバーだったのだ。
「朝鮮戦争(1950年代初頭)の頃には138軒のバーが小さな中華街に軒を連ねていた。
血の気の多い船員や兵隊ばかりだから、流血沙汰もしょっちゅうでね。
だから当時の中華街は『ブラッドタウン』なんて呼ばれていたよ。
裏通りには日本人は誰も寄り付かなかったよ」
60年代後半にベトナムへ赴いたジミーさんがヨコハマに戻ってきたのは‘72年のこと。
店内はウィンドジャマー、つまり19世紀の帆船をイメージして造られたという。ノルウェー人の大工の手による、キャビン風の内装が印象的。
だが彼が愛する、無秩序で熱気あふれるヨコハマは大きく変わり始めていた。
ベトナム戦争が泥沼化する中で、多くの兵隊が日本を去った。
また港に帰港する船舶もコンテナ船が主流となり、停泊時間も短くなったため、
以前のように多くの外国人船員が夜の街に繰り出すことは少なくなっていった
そんな中、ジミーさんはついに自分のバーをオープンさせる。
「兵隊時代から、親戚が経営していた本牧のバーでアルバイトをしていたんだよ。
親父のパブの手伝いから始まって、やっぱりこの世界が肌にあったんだね。
除隊して、バーを拓こうと決意した」
こうして‘72年9月1日、「ウィンドジャマー」は産声をあげた。
当時のバーのほとんどは、ホステスの女性がカウンターでサービスする、サパークラブのような形態だったという。
「70年代初頭、ここいらにも日本人客をちらほらと見かけるようになってね。
それに伴って中華街のバーも従来の営業方式をあらためて、
日本人向けのパブやスナックに鞍替えしはじめた。
デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、イギリス、ドイツ…..かつては十数名の外国人オーナーがいたんだが
中華街から外国人客が少なくなるとともに、そうしたバーオーナーたちも店を畳んで故郷へ帰ってしまった。
寂しいもんだね」
ジミーさんが30年前に考案した「マティーニ・セット」(¥1,300)は、ジンもしくはウォッカと、レモンピール、オリーブ、そしてベルモットかライムジュースをセットにしたもの。自分で好みのマティーニを作れるから、マティーニには一家言ある外国人客に大いに受けたとか。
ここにも古きよきヨコハマの面影を偲ばせる、楽しいエピソードが隠されている。
「豪華客船『クイーンエリザベスⅡ』号がヨコハマに寄港する際には、
夜になると船のバンドマンやスタッフがやってきてね。
『ジョー・ロス・オーケストラ』っていう有名なジャズメンなんだが
船上ではメローな曲しか演奏できないからさ、ここに鬱憤を晴らしに来るんだよ。
そりゃあもうアツいジャズナンバーを、それこそ朝まで演奏し通し。
噂を聞きつけたジャズファンたちが大挙して店に押し寄せ、
店の入り口から通りにまであふれていたよ。
いい時代だったな」
うちはライブハウスではなくジャズラウンジ、と胸を張るジミーさん。
今はこういうスタイルの店は姿を消してしまった。
だからこそ、このスタイルを貫き通したい、と考えている。
目指すは、サンフランシスコにある「タディッツ・グリル」のような店。
サンフランシスコ地震より前に創業し、
ティーンのころから働いているという80歳近いウェイターが、昔と変わらず出迎えてくれるような。
「店を開くことは簡単だよ。資金さえあれば誰でもできる。
自分にとって大切なのは、いかにスタイルを変えず続けるか、ということ」
だから酒もバーテンディングも、店内に流れるジャズも、ジミーさんは徹底的に「本物」にこだわった。
レストランでサーブするミートソースは、日本人向けにケチャップで味付けしたものではなく、
本物のボロネーズソース。
ピーチスナップスが日本に出回っていない時代は、ファジーネーブルやファジーパッカーを出したいがために、
自家製ピーチスナップスを作ってしまったという。
「ピーチスナップスが日本のどこにもなくて。
それなのにジミーの店ではファジーネーブルを出している。
ジミー、どうやって!?ってみんなに不思議がられたよ」
41年の歴史を持つ、ジミーさんのオリジナルカクテル「ジャック・ター」(¥1,050)。ジャック・ターとは船乗りのあだ名。本来、船乗りの酒であったラム酒を飲みやすいようにアレンジ、サザンカンフォートを加えたもの。フルーティで飲みやすいが、アルコール度数は意外に高い。さすが船乗り!
こうして、ウィンドジャマーが40年という歳月を積み重ねてこられたのは、
ジミーさんの徹底した「本物志向」と、それを慕って集まるスタッフやバンドの質の良さ、
そしてそのムードに惹かれて集まる常連客たちの存在のおかげだろう。
ハウスバンドは勤続28年、店のシェフも26年選手。
今はラウンジだった二階がまだレストランとして営業していた頃からのつきあいだ。
ホールのみならず店を統括するマネージャーだって四半世紀はここにいるというのだから、
40歳を迎えるバーの歴史は並みではない。
「だからお客さんもね、年齢層は幅広いんだよ。
初デートでこの店に来たって初老の男性が、息子を伴って来店したり
3世代でファンだという常連客もいる。
古くからの付き合いの常連客がいるから、古参のスタッフはこの店には欠かせないんだよ」
こうした時の積み重ねは、多くの優秀な人材をも輩出した。
たとえば帝国ホテルの格調高いメインバー「オールドインペリアルバー」でトップバーテンダーを務めた菅田さん。
横浜・ブリーズベイホテル内の「バー・エルマール」のトップバーテンダー、加藤さんなどなど
多くのバーテンダーがここで見習いとして働き、バーテンディングを学び、巣立っていった。
横浜で新しくホテルを開業するとなったら、スカウトマンはまずウィンドジャマーを訪れるんだとか。
系列店である「ケーブルカー」開店時の様子。若々しいジミーさんがカウンターに立つ。
「バーテンダーはね、寿司屋の板前と一緒。
信頼できる寿司屋にいったら『おまかせ』にするでしょ?
彼らはその『おまかせ』の中に自分の物語を描く。
何のネタを使うか、どれとどれを組み合わせるか。そのストーリーが面白い。
そして自分のストーリーを語るには、何年もの修行が必要なんだ。
この国のバーテンダーはね、『ドリンクメーカー』が多いんだよ。
カクテルはうまく作れても、客とのコミュニケーションが図れない、あるいはプレゼンテーションができない。
バーテンダーなら、たとえば酒の説明ひとつにしても、その酒にまつわるエピソードやそれが生まれた背景なんかを織り交ぜて
そこにストーリーを描かなくちゃね」
ジミーさんによれば、見習いとして入店した若者がバーテンダーになるかドリンクメーカーで終わるかは、
勤めはじめの2、3ヶ月でわかるんだとか。
ここを巣立ったバーマンは1000人を超えるというが、
中でもジミーさんが「ここ10年では5本の指に入るバーテンダー」と評価するのが
現在、シンガポールを拠点に活動する江口明弘さん。
「ディアジオワールドクラス2011」シンガポール大会の優勝者である。
今から10年前、バーの右も左もわからない江口さんがウィンドジャマーの門を叩いた。
「水商売はうちが初めてだったらしいけど、とにかく彼はやる気があった。
そんなにお酒も強くなくて、カクテルはジントニックくらいしかわからなかった。
彼にバーテンディングの本をあげたら、本当によく勉強していたよ。
店が終わったらいろいろなバーを巡って、飲めないながらによく飲んでね」
さて次回は、そんな横浜の過去と未来をつなぐ、江口明弘さんの物語。
次回に続く。
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